府中市について 府中の歴史

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府中市について 府中市の歴史

なまあず本舗は前身の設計事務所と併せて50年近く、府中市で営業を続けてまいりました。そこで愛着ある府中市の情報をまとめています。古い情報もあるかもしれませんが、ご了承ください。

府中市について

日本の首都である東京都のほぼ中央に位置する都市。競馬場や刑務所や大國魂神社で有名です。最近では女子サッカーの澤穂希選手の出身地として名前が挙がっています。またラグビーが盛んなことも今回のワールドカップで有名になりました。
1954年に府中町、多磨村、西府村の3つが合併して府中市となりました。その名残か西府村等の古くからの住民は未だに「府中に行ってくる」という場合がありますが、このことと関係あるのかは不明です。
歴史が古く、律令制時代には武蔵国の国府が置かれており、鎌倉街道や甲州街道などの交通の要所であり続けました。市内には高倉塚古墳群や、分倍河原古戦場など歴史的に重要な遺跡、史跡が多くあります
現在は、京王線、武蔵野線、南武線、西武線が乗り入れていて交通の要所であり、生活充実度が高く住みたい街の上位に位置することも多いステキな街です。
このページでは、長年府中で営業を続けているなまあず本舗が独自の視点でまとめております。情報が古くなったりすることもありますので、その点はご容赦を。

府中市の歴史

歴史の街は交通の要衝

私は高安寺保育園(府中市片町)で育った関係上、先生から昔の府中のことについていろいろと教えてもらって育ちました。その伝聞も含め書いてみました。

古代~

大化の改新以後、武蔵国がおかれ、その国府は府中市付近におかれました。府中の名前は国府の中心を意味します。つまり中心地です。そのため早くから政治、経済、文化の中心地として栄えました。
府中市の中心にある大國魂神社は景行天皇の111年に創建と伝えられ非常に古い神社です。源頼義・義家が奥州に向かう際に戦勝祈願するなど由緒ある神社です。
あの百足退治伝説や平将門討伐で有名な藤原秀郷も府中に縁があり、現在の高安寺付近に館跡があったそうです(高安寺で聞きました)。
武蔵国の国分寺からも至近距離にあります。古墳も多く、古代においてはかなり開かれた地であったことは間違いないようです。

鎌倉時代~

鎌倉時代に入るちょっと前、源頼朝と義経の兄弟の関係が悪化し義経と弁慶が鎌倉入りを拒否されたのち、府中市付近に立ち寄ったという伝説が残っています。府中市片町付近に弁慶橋、弁慶坂、弁慶井戸(高安寺)という名前で残っています。また高安寺は足利尊氏が中興したといわれる歴史ある寺です。
鎌倉時代は、鎌倉に向かう道を鎌倉街道といい、複数の道がありましたが、府中もその一つが通っていました(現在も府中には鎌倉街道という名前の道路や道があります)。その交通の要衝であったことから、鎌倉幕府滅亡時の分倍河原の合戦の舞台になりました。最後の戦いと意気込んだ鎌倉幕府軍が初戦を勝ちました。しかし盛り返した新田義貞軍に打ち破られて鎌倉に向けて落ちていきます。そして鎌倉幕府は滅亡します。鎌倉幕府の命運を事実上決めた戦いの舞台でもありました。その後も南北朝時代に新田軍と足利軍による人見原の戦いが発生しました。
鎌倉街道など古い道に関しては「府中市の古代の道」にまとめたのでご参照ください。

江戸時代~

鎌倉時代・南北朝時代以降は、府中が表舞台に立つことは少なくなりました。それは室町時代、安土桃山時代と歴史の舞台は京都・大阪であったためです。戦国時代も府中は交通の要衝ではあったものの平地であり、城もありませんでした。後北条家支配下でも、特に大きく取り上げられることはありません。
しかし徳川家康が江戸に入り、後に江戸幕府を開くころになると再び重要な地点となります。
江戸幕府の交通網は五街道。五街道の一つである甲州街道の経路にあり、府中宿は29軒の旅籠をもつ大きな宿場町として成長しました。現在の町名などにつながる名前はこのころのものです。道については、詳しくは「府中市の江戸期の道」でまとめたのでご参照ください。

弁慶の硯井戸

府中には、源義経の家来の弁慶にちなんだ地名、史跡がいくつかある。府中市片町の弁慶橋もその一つ。今は橋はないがそのような名称の橋が昔はあったようです。他にも弁慶坂というのもあるそうです。
さて、私の出身保育園である高安寺保育園は、足利尊氏が中興したといわれる高安寺の中にあります。そして弁慶の硯井戸はその境内にあります。
兄、源頼朝の怒りを買って鎌倉に入れなかった義経主従が、この地で大般若経を書き写すために、境内にある井戸の水で墨をすすったという伝説の井戸が弁慶の硯井戸です。あくまで伝説ですが、先ほどの弁慶橋からすぐのところにあります。

郷土かるた

武蔵府中郷土かるたは、昭和47年に発行されました。そして市内に標識が建てられました。小学校の頃は、その標識を探したり、見つけることが流行しました(授業の一貫だったのでしょうか??)。府中の歴史上の出来事や遺跡などを詠んだもので、私も大好きなかるたです。ちにみに、「い」は「いちばんはじめに武蔵の国府」というやや強引な札で始まります。

日本一を狙う府中市

なぜか日本一・日本初が好きな府中市。府中市が企画したものでないものも含まれますが、地味な印象を払拭できるか?今後の課題です。

・私立中央図書館:日本初の無線ICタグを使った図書貸し出しシステム
・多磨霊園:日本初の公園墓地、日本一広い公園墓地
・大太鼓(くりぬきタイプでは日本最大)
・プラネタリウム(当時は最大。今でも平床式では最大級)
・選挙速報(一番早いと有名だった。府中の選挙は地方から見学者が多かった)
・上円下方墳の最古最大(当時)の発見だった武蔵府中熊野神社古墳(古墳パレードとか汗)
他にもあるかもしれません。結構目立ちたがり屋の市なのかもしれません。

府中市の祭

府中市はお祭り大好き!


府中市はお祭り大好き!私の子供の頃もお祭りが多かったのですが、近年更に増えている!!そんなわけで府中のお祭りを紹介したいと思います。
一番大きなお祭りは五月の「くらやみまつり」です。府中のまつりは主に大國魂神社や近辺で行われます。
新しいタイプのお祭りも増えており、有名なのはキャンドルナイトや、マルシェ、JAZZ in Fuchuです。他にも地域ごとにお祭りがあり、文化センター祭なども活発です。新型コロナが納まり、祭りも復活してきています。

府中市のお祭り一覧(開催月は目安)

一月 初詣

二月 節分
梅まつり
三月

四月 桜まつり

五月 くらやみまつり

六月 あじさいまつり

七月 すももまつり

八月 八朔相撲まつり
商工まつり
けやきフェスタ よさこい in 府中

九月 栗まつり
府中市民芸術文化祭(12月まで)
武蔵の國の酒祭り
府中市生涯学習フェスティバル

一〇月 むさし府中ビール祭り
福祉まつり
ふちゅうテクノフェア
けやき音楽祭 JAZZ in FUCHU

一一月 酉の市
府中市農業まつり
府中刑務所文化祭

一二月 みそか市

府中市付近の古城

交通の要衝だが、平坦で守りにくい府中

府中市は甲州街道、鎌倉街道が通り、古くから交通の要衝です。そのためこの地で戦闘が起こることもあり(分倍河原の戦いなど)、歴史の表舞台に立つこともありました。反面、平坦で守りにくいので城もありません。ただ戦闘を行った形跡から、陣屋があったり、本陣用の城郭があったかもしれません。また周囲の市にも小さいながらに城が見つかっております。大城郭はありませんが、興味をそそられます。

高安寺は隠れた軍事拠点

府中市で城らしき城は見当たりません。陣屋としては、国分寺が本陣に置かれた可能性はありますが。その他では高安寺です。高安寺は分倍河原の戦いで新田義貞が陣を敷いたことがあります。新田軍からすれば南側に陣を置く北条軍を防ぐのに適したハケ地の高台ですから軍事拠点として適していたと思われます。

比較的保存状態がいい深大寺城跡

近隣で、比較的保存状態がよく、城の雰囲気が感じられるのは、ゲゲゲの女房で有名になった深大寺付近にある深大寺城跡でしょうか?なんと神代植物公園の一部です。深大寺付近は高低差があり守りやすい地形になっています。残っているのは空堀や土塁で、明らかに人が作った物とわかる遺構があります。植物園を楽しみながら城跡も楽しめる公園です。

お城の宝庫は八王子

平地が多く守りにくい東京にあって、西部の八王子付近は守りやすい地形があり、城の宝庫です。京王線で簡単に行けるのは平山城跡です。平山城址公園という駅までありますから。他には小田原の役で落城した本格山城の八王子城などもあります。

その他のお城

府中の南に位置する多摩丘陵の麓には関戸城が、三鷹市新川付近には天神山の砦の跡があります。どちらもほぼ跡はありません。国立には、谷保の城跡があります。こちらは谷保天満宮近くの城山公園として整備されています。稲城市には、大丸城跡が案内板のみ設置されています。やはり城山公園というい名前で残っていますがこちらは関係ないみたいです。

府中市の古墳

武蔵府中熊野神社古墳

全国でも珍しい上円下方墳で、2005年に国史跡に指定された。発見当時、上円下方墳としては最大、最古だそうです。2011年に展示館がオープン。古墳自体も復元され保存し外からみることができます。

高倉塚古墳

古墳時代後期の古墳で高倉塚古墳群という27基ほどの古墳群。そのうちの数基が墳丘として現存しています。高倉塚古墳と高倉20号古墳が有名です。高倉塚古墳は市の指定史跡に指定され整備されています。高倉塚古墳は、中世以降には、信仰の対象となって手厚く保護されてきた珍しい古墳です。

八雲神社古墳(天王塚古墳)・御嶽塚古墳

高倉塚古墳から近い古墳。八雲神社古墳は八雲神社の裏山にあり、形から古墳っぽいです。御嶽塚古墳は新たに駅ができた西府駅南口にある。公園ぽく整備されています。

小柳町古墳群・白糸台古墳群

多磨霊園駅の東側に分布する小柳町古墳群。武蔵野台駅周辺に分布する白糸台古墳群。どちらもあまり形を残していません。

府中市の過去の鉄道

府中市は古い鉄道いっぱい!

府中市は、武蔵国の要衝ということもあって、鉄道網が整っています。しかし今の形になるのはそんなに古いことではありませんでした。廃線になってものや、合併されたもの様々です。昔はその跡がいっぱいあったのですが、今は見る影もありません。ということでこのホームページで残していこうと思います。

下河原線の東京競馬場前駅からの分岐から合流する写真を元に描いたスケッチ。

京王線も紆余曲折

京王線も今でこそ、東京から八王子へ・・・という東京の大動脈ですが、ここまで洗練された鉄道になるまでは紆余曲折がありました。1913年に開業しますが、そのときは笹塚と調布でした。最初新宿まで開通していなかったというのが意外ですね。新宿に延伸するのは1915年です。その翌年の1916年に新宿~府中間が開通しました。府中は始発駅だったんですね。そもそも通る予定だった中央線が・・・(以下略)でね、っていうことになりました。
1925年、京王の関連会社である玉南電気鉄道により、府中駅~東八王子駅(現京王八王子駅)間が開業。これは当時の法律により分割して補助金を得ようとしたらしく(実際は認められなかった)元々分割して営業するメリットはあまり感じられなかったようです。そこであっさり翌年の1926年京王電気軌道が玉南電気鉄道を併合し資本金1290万円の会社となりました。1927年に全線で1372ミリへ改軌が完成、1928年に新宿~東八王子への乗換無しの直通が完成しました。
1955年に、東京競馬場への足として、東府中ー府中競馬正門前が開業。現在の形となります。
ちなみに分倍河原駅は、1928年に屋敷分駅から改称、1929年に現在地へ移転した経緯があります。元々は、旧甲州街道沿いに駅はあったので、南武線に合わせてかなり南下させたことになります。早期にこのような形となったため老朽化も激しく、現在建て替え問題が発生しています。
多磨霊園駅は、多磨駅→市公園墓地前駅→多磨霊園駅と改称された経緯があります。
武蔵野台は1959年に車返駅から改称されています。
東府中駅は、八幡前駅→臨時競馬場前駅(1935)→東府中駅(1940)と変化します(移動あり)
府中駅は、1993年より新駅舎使用開始されています。

意外と複雑だった南武線

南武線も京王線並に複雑です。最初は南武鉄道株式会社(私鉄)で、川崎ー登戸間で開業(1927年)しました。1929年には分倍河原ー立川間も開業し、川崎ー立川間での現在の形での営業を開始します。1944年に国有化しました。私鉄の砂利鉄道として開業しましたが、沿線にNECや富士通・東芝などの工場があることと人口が急増したことで通勤電車として発展しました。
当初の駅は、南から是政多摩川停留場ー府中本町ー屋敷分(分倍河原)ー西府停留場で、後に屋敷分と西府の間に本宿停留場が開業し一応の完成を見ます。しかし1944年に国鉄に買収され、西府、屋敷分、是政多摩川が廃止となります。このことが、南多摩ー府中本町間、分倍河原ー谷保間の距離が長いことに起因します。その結果、2009年に西府駅開業。当時の西府・本宿の間に駅ができることになります。
なお、砂利鉄道として出来た経緯があるので、当時の是政多摩川停留場から現在の健康センターの位置にあった砂利採掘場までの支線がありました。
府中本町駅での下河原線との接続(廃止)、武蔵野線との接続などで府中本町駅は非常に重要なターミナルとなります。また分倍河原駅も京王線との接続で非常に重要な乗換駅となっております。

新しい鉄道の武蔵野線

府中市で比較的新しい鉄道といえば、武蔵野線。1973年開業ですからまだ40年あまりです。全線が第一種(JR東日本)、第二種(JR貨物)鉄道事業者となっています。
比較的新しいのですが、風雨に弱く大雨が降るとよく止まります。もともとの計画が貨物専用線だったこともあり、貨物列車が多いです。府中本町が終点ですが、貨物は府中本町から南に別の線路がのび、遠く鶴見駅までつながっています。これは貨物専用ですが、ホリデー快速鎌倉号など臨時列車が運行されることがあります。
比較的新しいので、開通してからのドラマは少ないです。ただし、西国分寺から府中本町が開通したので、それまで武蔵野線の西側に平行して走っていた下河原線が廃止となりました。
武蔵野線は、実は旧なまあず本舗本社(府中市宮西町)の建っているビルにわずかにかすって地下を走っています。そのため武蔵野線に影響を与えないため、実は特殊な構造設計をしています(なまあず本舗スタッフが設計に係わる)。そのため店内に入ると整形の建物なのに柱位置が変な位置にあります。これは線路の上のみ片持ち梁で設計し、線路上のトンネルに負担をかけないためです。

砂利運搬時代の名残の西武多摩川線

西武線のなかで、なぜか他の路線から隔離されていて不思議な感じします。
1910年に設立された多摩鉄道が最初の運営元です。1917年に境(現武蔵境)ー北多磨(現白糸台)間が開業。1922年には是政まで開業し現在に近い形になります。1927年に西武鉄道に合併されました。多磨霊園への参拝客目当てに多磨墓地の駅を開設し、徐々に旅客輸送も増やしていきます。1967年に貨物輸送を廃止します。
他の西武線から隔離されているので、メンテナンスなどにJR線を経由して整備工場に運んだり、平日土曜日休日共通ダイヤだったり、鉄道としてもいろいろ特異な部分もある路線です。未だ単線です。
支線としましては、戦時中、中島飛行機工場への引き込み線があったり、競艇場前から出ていた砂利採取線への支線があったり興味深いものがあります。

無くなった駅名・変更になった駅名一覧

東京競馬場前駅
下河原線の駅で、現在の府中本町駅の南方200m程の場所にあった。府中競馬正門前とは別物。国分寺からの競馬客の運送のため1934年に仮停車場、1947年に駅として営業。1973年に武蔵野線開業に伴い廃止。現在は、防災公園となっており、当時の線路の位置には遊歩道が整備されている。

下河原駅
下河原線の終点。1910年頃開業。国分寺駅へ砂利を運搬するための貨物専用駅。1920年国有化。1921年廃止。1952年再開業と開廃業を繰り返す。1973年に武蔵野線貨物支線の駅となるも1976年に支線の廃止により廃止される。現在は遊歩道の事実上の終点の位置となっている。

屋敷分駅
現在の分倍河原駅相当。しかし当時は若干現在の位置と離れていた。1928年に改称。

本宿停留場・西府停留場
1944年戦時中に南武線が国有化されたのに伴い、廃止された。本宿停留場は現鎌倉街道との交差付近、西府停留場は、新甲州街道との交差付近にありました。結果、分倍河原駅と谷保駅の間は非常に広くなり、新駅の設置が望まれましたがなかなか実現しませんでした。ようやく2009年に西府駅が開業しました。

南武是政停留場(是政多摩川駅・南武多摩川駅)
本宿停留場などとともに、廃止された現在の 府中本町駅と多摩川の間にあった停留場。ここから現在の健康センター付近への砂利採掘線が分岐していた。この駅と府中本町駅の間に南多摩側仮停車場が開業されたこともあった。

廃線マニアの多い下河原線

府中市内で1973年まで走っていた下河原線の記憶がある人は減ってきていますが、跡地を遊歩道として整備したため、その遺構を忍ぶことができるので、廃線マニアには人気があります。
1910年に東京砂利鉄道として開業。府中市発の鉄道路線で、砂利を運ぶ専用線でした。1933年に東京競馬場が開設されたので、東京競馬場前駅(一時国鉄の最長駅名でもあった)を開業し旅客線・貨物線として営業された。平行する武蔵野線が開通するのにともない廃止された。
短い路線でしたが、支線がいくつかあり、東京競馬場前駅へ分岐するものが大きいです。他には東芝工場に入るもの、府中刑務所に入るもの、現在の航空自衛隊府中基地付近にあった旧陸軍燃料廠に入るものなどいろいろでした。メインの砂利運搬にしても下河原駅付近から複数の線路が伸びており、トロッコなどで運搬していたようです。現在は線路はありませんが、下河原線の線路跡が道路になっていたり、その面影がわずかに残っていたりと興味深いです。


廃止直前の切符のスケッチ

特集!下河原線

2011年に一般社団法人東京都建築士事務所協会の建築ふれあいフェアに出展したパネル作成のために調査した内容を元に、下河原線についての写真、調査内容を掲載します。

下河原線を現在のマップに合わせて表示。赤が本選。青は支線、紫は東京競馬場前駅への分岐。


現在は遊歩道となり、市民に利用されています(府中市本町付近から南武線との交差を望む)

昔、下河原線があったことを忍ばせるものは意外に多い。線路が埋めてあったりもします。
(新甲州街道との交差部分の北側の公園)

枕木を利用したオブジェも多かったが、老朽化して撤去されたものも多く減少しています。

解説する案内板も多い。

遊歩道もできて40年近いので初期の案内図などは老朽化しています。

さて、廃線から40年。しのぶものもほとんど無くなってきたうえ、ネットでの情報は同じ物ばかり。これでは困りますね。というわけで古地図を取り出して当時を振り返ってみました。
設計事務所と古地図は非常に関係があり、昔その場所に何があったか?で地盤を推定することができます。なまあず本舗設計室では、古地図を利用し府中市を洗い直して、設計に活かしています。


明治時代の府中市南部の地図。明治15年測量のものを元に描かれたもの。まだ鉄道はありません。分倍河原の古戦場跡や、一部現在の地名となっているものから場所は推定できます。


戦前の昭和15年のマップ。この時代になると京王線も鎌倉街道も下河原線も南武線も見て取ることが出来ます。東京競馬場が完成したので、下河原線に東京競馬場前駅ができています。下河原線付近には多数の砂利採掘の孔などもあり、当時の多摩川の河川敷が今より広大であったことがわかります。南武線の旧駅である南武是政駅もこの時期にははっきりと記載されています。


戦争が終わった昭和29年のマップ。下河原線のトロッコが描かれています。また南武線の旧南武是政駅付近から出ている支線もまだはっきり描かれています。現在の健康センターのあたり大きな孔があいています。このあたりは、武蔵野線採掘の土などで埋めて、現在の公園になったとか。


下河原線廃止した当時のマップ。このあと遊歩道が整備されます。競馬場線は一足早く撤去され無くなっております。またこの時期までは南武線の支線の跡ははっきり見て取れます。

今度は北側の国分寺側です。


明治15年測量のマップです。何もありません。中央線が走る前です。これなら鉄道の敷設も比較的容易だったと思います。


昭和14年測量のマップです。周囲はほとんど畑です。既に刑務所はできています。刑務所への引き込み線はこのころからありました。


昭和27年測量のマップです。当然ですが武蔵野線はまだありません。国分寺から分岐して入ってくるカーブの内側は中央鉄道教習所で、まだ引き込み線はありません。


下河原線廃止時のマップです(府中市版なので国分寺の内容がほとんど掲載されていなくて残念)。当時の中央鉄道学園への引き込み線ができています。こちらは下河原線の線路が撤去された跡もしばらく残っていたので勘違いする人が多いようです。似たカーブですし。詳しくは国分寺の古い地図を調べてください。


というのも親切じゃないので、線路撤去後の同付近です。このように中央鉄道学園への引き込みは健在です。下河原線の跡には一部点線で示されています。

今度は北府中付近


最盛期と思われます。東芝工場内への引き込み線はもちろん、府中刑務所や日本製鋼への引き込み線も健在です。また旧陸軍燃料廠への支線もはっきり残っています。この位置は現在は道路になっています。

古地図は見ていて楽しいだけでなく、当時の生活や文化を知ることができる資料の1つです。また住宅などを建てる前に、そこがどのような場所だったのか?確認できる唯一の資料です。幸い東京は比較的資料が残っています。地図は図書館などに保管されていたり、一部コピーや印刷物を購入することができます。

府中市の江戸期の道

江戸が日本の中心になり府中市は

江戸幕府になり、名実ともに江戸が中心になり、府中市は、5街道の1つである甲州街道の宿場町として再び脚光をあびることになります。甲州街道は参勤交代で通る大名が非常に少なく、もっぱら庶民の道として親しまれました。

初期の甲州街道

別に江戸幕府ができたから整備されたわけでなく、戦国期から整備されていたと推定されます。江戸幕府では、江戸城陥落の際に甲府までの避難路として使用されることを想定して造成されたそうです。実際の歴史ではまったく役にたちませんでしたけど。
当初の道筋は、現在の旧甲州街道ではなく、多摩川に近いハケ沿い、現在の大國魂神社の随神門前を通るルート(往古の甲州街道)だったそうです。慶安・寛文年間(1648~73年)に現在の旧甲州街道のルートに変更されたようです。現在の京所道がその名残の可能性が高いです。まあ今は神社の中を突破する・・・というルートなので想像しにくいのですが。

江戸中期からの甲州街道

地図を見る限り、その後はかなり安定した道路だったようです。明治時代の地図でもそれほど大きな変更はありませんでした。その後鉄道が通りはじめると府中も激変を始めるのですが。江戸後期以降は比較的信頼性の高い地図も揃っていますので、並べて眺めて見ると面白いと思います。

京所道


初期の甲州街道に書いた通り、江戸初期は、従来あった道を甲州街道として利用していました。現在の京所道付近であり、現在の大國魂神社を横切るルートだったようです。武蔵國国衙など遺跡も多く古い歴史のある地域です。

江戸期の鎌倉街道

江戸期になると、なぜか鎌倉街道という名前ができ、府中にも鎌倉街道という名前の道ができはじめます。明治後期の地図を見る限り、それほど大きな道ではなかったようです。府中付近から関戸を通る道も川崎街道ほど整備されていなかったようですが、中河原や分梅の集落を通り府中に抜けるルートは確立されていたようです。反対に、本来の鎌倉街道であった、北上ルートは、はっきりとした道は現存せず、後に東芝府中工場が建てられたり、府中4中が建てられたりしたことからわかるように、道としての役割は終了していたようです。

川越道・川崎街道


現在の府中街道(川崎街道・川越街道)は、府中付近でまったく別な道路になっていました。川崎街道は、東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿から、府中を結ぶ古代からの道です。鎌倉時代にはその存在がありました。多摩川を越えるルートであり、終点は現在の旧甲州街道の高札場付近でした。江戸時代はそこで行き止まりでした。 クランクして北側に旧川越道があります。現在の旧甲州街道から北側の府中街道は、昭和になってから作られたものです。ここでの川越街道は、現在の一般的な川越街道と異なるものです。